東京・重慶・戦禍の空の下:大空襲・大爆撃訴訟を追う/2 /東京【2008.03.08】(毎日新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080308-00000007-mailo-l13

戦災孤児
◇自らの体験重ね追跡調査−−実態反映せぬ人数
 「戦災孤児たちの調査を始めて約20年。私以上にみじめな体験をした孤児たちの存在を知って、追跡調査に拍車がかかりました」
 東京大空襲訴訟原告団副団長の金田マリ子さん(72)=埼玉県蕨市塚越=は自らの体験を振り返る。執念ともいえる調査をこれまで数冊の本にまとめてきた。
 あの日の光景が忘れられない。当時9歳。家族は母と姉妹との4人。一家は学童疎開先からの金田さんの帰京を待って、大阪府内に家族疎開する矢先だった。45年3月10日の早朝。夜行列車で国鉄(現JR)上野駅に到着。一面の焼け野原に、転がる黒焦げの死体。自宅のある浅草区(現台東区)に母らの姿はなかった。
 「母と姉は隅田川から遺体で引き揚げられましたが、妹は現在も行方不明。私はその後、奈良県兵庫県などの親類をタライ回しされました。従兄(いとこ)には『親なし子』、結核になっても医者に行けず、従姉(いとこ)からは『怠け者』といわれながら、コマネズミのように働かされました。早く死んで母の所へ行きたい。そればかりを考える中学生活でした」。高校を卒業できたのも母が残した貯金通帳のお陰だったという。
 大空襲訴訟弁護団の調べでは、被害当時の原告年齢は60%近くが15歳未満。両親を含む親族を失った者が44人で、全体の約40%にのぼり、孤児の存在が際立つ。旧厚生省の48年の調査によると、全国で孤児数は12万3511人。このうち戦災孤児は2万8247人。この中に「浮浪児」は含まれていない。
 「学童疎開中に親も家も奪われ、帰るところがなくなり、浮浪児になった子は多く、戦災孤児データは実態を反映していない」と金田さんは指摘する。
 金田さんは高校卒業後、上京。親類宅で「あのとき(3月10日)、親と一緒に死んでくれればよかったのに」といわれ、独りで生きていくことを決意。ボストンバッグ一つが全財産。ホステスやお手伝いなどをして自活の道を開き、つらい日々は25歳で結婚するまで続いたという。
 「孤児たちが語れるようになるには60年という歳月が必要でした。自殺した孤児、ボロボロに働かされ病気で伏せている孤児たちの分まで代表しています。我が国は『天皇の赤子(せきし)』と教育されてきた子供が戦争で孤児にされても、一切の援助や補償、謝罪をしないのでしょうか」
 昨年8月30日の東京地裁であった第2回口頭弁論。金田さんの意見陳述に、廷内は静まり返っていた。【沢田猛】=つづく