果たされた約束:秘話・ゾルゲ事件/中 戦後も続いた嫌がらせ…=山衛守剛 /神奈川【2008.03.07】(毎日新聞)

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◇戦後も続いた嫌がらせ、懸命に一人息子育て
 終戦7カ月前の1945年1月13日、ゾルゲ事件連座した旧ユーゴスラビア人、ブランコ・ド・ブケリッチ氏が網走刑務所(北海道)で獄死すると、妻淑子(よしこ)さんは網走へ向かった。
 彼女の手記によると、訪れた刑務所ではブケリッチ氏が妻子の自慢をしていたと聞かされたという。遺体を荼毘(だび)に付した淑子さんは、遺骨を東京・下北沢の実家に持ち帰った。だがベオグラード在住の長男洋さん(66)によると、遺骨は実家の両親が置くことを渋り、世田谷にあった宣教師館に安置された。
 5月25日。宣教師館は空襲で跡形もなくなった。駆けつけた淑子さんは瓦礫(がれき)の中で懸命に遺骨を探したが、どうしても見つからない。悔やみ切れなかった。
 「家に置いておけば……」
 終戦前後の混乱期。やがて宣教師館があった場所すら分からなくなった。

 戦後まもなくして、ゾルゲ事件は再び人々の記憶に甦(よみがえ)る。40年代後半、米国の主導で事件が反共産主義の宣伝に利用されるようになったからだ。
 淑子さんは「山崎淑子」という日本名で、人目につかないように暮らした。当時まだ幼かった洋さんはこう振り返る。
 「『いじめられないように』と近所の小学校に行けなくて遠くばかり。母は父のことをいっさいしゃべりませんでした。周囲にも自分にも。聞いていたのはブランコ・ブケリッチという名前とユーゴスラビア人であるということだけでした」
 夫はたった一人の息子を自分に託したのだ。彼の信頼を裏切ってはいけない――。淑子さんは固く信じていた。
 アバス通信(現AFP通信)でブケリッチ氏の上司だったロベール・ギラン氏の著書「ゾルゲの時代」(中央公論)によると、ギラン氏は50年代になって淑子さんに「ゾルゲ事件について書いて、淑子さんの不運な夫の役割を語りたい」と申し出た。だが彼女は答えた。
 「事件について本が出たり、ちょっとした記事が出ても、すぐさま嫌がらせがあります。罵詈(ばり)雑言の手紙とか、いろいろな形の中傷とか、落書きなどです。私だけならいいのですが、息子のことがありますので。どうかあの子が大人になって身の振り方がきまるまで、お書きにならないで下さい」

 淑子さんが雑誌「婦人公論」に手記「スパイの妻の屈辱に耐えて」を発表したのは65年2月のことだ。慶応大を卒業した洋さんが旧ユーゴスラビアへ留学して、2年ほどがたっていた。手記はこんな言葉が並ぶ。
 <夫のあとを追いたい気持ちを抑えて、夫の期待を裏切らないように、私たちの一人息子を育てることに懸命でした>
 <息子についての心配のなくなった今、今こそ私の夫の本当の人柄をも、世に知らせるよう努力するのは、この事件の歴史的意義から言っても、私の義務>
 <ずっと夫の死について自分を責めつづけています。彼を助けるために、私にできることはなかったのだろうか、と考えるのです>

 06年4月、母の体調が思わしくないと聞いた洋さんは、横浜の淑子さん宅へ急行した。晩年の彼女はしばしば嘆いていたという。
 「なんでこんなに生きてしまったのか」
 5月3日。淑子さんは洋さんに見守られながら、眠るように90年の生涯を閉じた。