証言「語る人  元本庄警察署新井巡査」

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data7/data7-4.html
朴慶植/著 未来社朝鮮人強制連行の記録」P-234〜239より引用。
原典は「日朝協会埼玉連合会『埼玉県内における関東大震災朝鮮人虐殺事件資料』1963年」
鷹嘴さんご提供 2007.09.01掲載

こうして[まず埼玉県通達をご参照下さい]埼玉県内でも各地で凄惨な朝鮮人虐殺事件が発生しました。その中でも有名な本庄市の事件を紹介します。

地震発生から3日後の9月4日、本庄警察署は保護していた朝鮮人をトラックに乗せ、群馬県藤岡署に移送しようとしました。しかし藤岡署から受け入れを拒否され、本庄署に戻ってきたところを群衆に襲撃され、何十人もの朝鮮人が虐殺されました。

群馬県へ送ろうということで、神流川の河原までいったが、群馬県側が受け取らず藤岡署と交渉した。その間十六名の朝鮮人を河原におろして交渉した。

本庄署では、前夜(三日夜)から保護していた朝鮮人が四十三名いたが、電話でデマにおびえた人達からの出動要請があって警官は出はらっていた。私が警察に残って外からの電話に出ている時、警察がからっぽであることを見ていった奴がいたのだ。

私が神保原の派出所に電話をかけると、電話からキャーキャーワーワという惨劇の声が伝わってきた。トラックに同乗して神保原に行き、群衆におそわれて派出所に逃げこんだ村磯署長をその電話に出してもらおうと思ったが、村磯署長は机の下にかくれているということだった。

本庄署へ引き返してきた三台のトラックは、朝鮮人を満載していた。私もそのトラックに乗っていたが、集まってきた群衆の中に青木紋九郎というギュウタロウがいた。その紋九郎が、「あいつは朝鮮人の偽巡査だ。あいつからやっちまえ」と煽動した。それがあいづとなって一せいに群集が襲いかかり、あの惨劇がはじまったのだ。私は一瞬早く車から降り避難した。この紋九郎という男は、長野県の県会議員の息子で教育もあり、弁も立つ男だった。私は後になって加害者を報告する時、この男を一番先にあげた。

惨劇の模様はとても口では云いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査ではとうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。

子供も沢山いたが、子供達は並べられ、親の見ている前で首をはねられ、その後、親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも途中までやっちゃあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後で、おばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」と云って、死体の目玉を出刃包丁でくりぬいているのも見た。

当時演武場は、警察署の方ではなく、町役場の方から電灯をひいていたので、演武場の電気は警察の方からは消すことができなかった。私は演武場の中の四十三人が見つかっては大変だからと、電気を消すように役場の方へ頼んだが、一向に通ぜず、そのうちに、演武場の中の朝鮮人も見つかってしまったのだ。「ここにいた」というわけで、群集は演武場に押しかけ、四十三人ことごとく殺してしまった。朝、私が演武場に行った時、立てかけてあった畳の陰にいて助かった二人の婦人から、水をくれ、と頼まれ小使いにもたしてよこすから、といっている間に、朝早くからやってきた群集に見つかり、昨夜の凶行場所に連れていかれ、ベンチの上で刺し殺されてしまった。私はどうすることもできなかった。

警察署の構内は前夜の凶行で血がいっぱいだった。長靴でなければ歩けなかったほどだ。警察署の構内で殺されたのは八十六人だが、本庄市内で殺されたのもいた筈だ。死体も見たが十五、六人位・・・二十人まではいなかったと思う。

署内の留置所にいて一人助かったが、これも群衆が「凶行を見られてしまったからには、朝鮮へでも帰って話されたら大変」というわけで、留置所の鉄棒の間から、竹槍で突こうとしたのだが、あっちへ逃げ、こっちへ逃げして、とうとう助かったのだ。これは後でどこかへ送られた。私は長い間、朝鮮人の「アイゴウ、アイゴウ」という悲痛な叫びが耳からはなれなかった。(中略)


9月6日には、朝鮮人を保護しようとした村磯署長や新井巡査に不満を持つ群集が再び本庄署を襲撃し新井巡査を殺害しようとしましたが、すんでのところで軍隊に制止されたそうです。


警察署に集まった群衆は署内に入りこんで数々の乱暴をした。そして私のいるところまで上がってこようとした。私は既に覚悟を決めていた。もし上がってきた奴がいたら切り殺してやろうと身構えていた。群衆はいろいろと私に見られているので、私をねらったのだ。しかし群衆の中にも私の味方がいた。

これは後で聞いた話だが、当時本庄署の構内に大きな桜の木が何本かあったが、その木に私の味方が登っていたのだ。そしてピストルをどこから持ってきたか知らないが、ピストルを持っていて、近づこうとする奴がいると、大きな声で「新井巡査に近づくとピストルで打つぞ」とどなっていたのだそうだ。

そんなわけで私はどうにか無事だったが、いよいよもうだめだという時が来た。私は時計を見ながら、後五分だと思った。その時、東京へ向かう軍隊が在郷軍人の人達の努力で、本庄におり、この暴動をおさえるために出動してくれたのだ。剣付鉄砲のおかげで、群衆はとび散ってしまった。後五分遅れていたら私は殺されていたろう。この事件後、しばらくの間、本庄町には軍隊が一個中隊駐屯していたし、憲兵屯所もできた。事件後、人々はこの事件でおとがめはあるまい、もし何かのさたがあるとすれば、論功行賞だと考えていた。虐殺事件の翌日など、ある人間は、私に向って「不断剣をつって子供なんかばかりおどかしやがって、このような国家キン急の時には人一人殺せないじゃないか。俺達は平素ためかつぎをやっていても、夕べは十六人も殺したぞ」といったりした。

このように殺害犯は反省するどころか手柄だと自慢していたようです。また処罰もまともに行われませんでした。

この事件の関係者の検挙は、九月十八日、一せいにねこみをおそって行われた。これには駐屯していた軍隊が着剣して応援した。

逮捕された人達は、本庄で又混乱が起ってもというので、深谷警察へ送られた。この二階に臨時検事局ができ、十人の検事によって調べが開始された。私はその時つきそっていたのだが、その時皆口々に「論功行賞にあづかるんなら申し上げましょう」といい、検事に「人を殺してほうびをもらえるのは、戦争の時だけだ」といわれると、皆ふてくされて「それじゃ何も知りません」というのが皆の態度だった。全然らちがあかないので、下調ということで警察の方へ廻され、演武場で皮のバンドでなぐりつけた。みんな、体中はれあがってしまった。

裁判もいいかげんだった。殺人罪ではなくて、騒擾罪ということだった。刑を受けたのは何人もいたが、ほとんど執行猶予で、つとめたのは三、四人だったと思う。私も証人として呼ばれたが、検事は虐殺の様子などつとめてさけていたようで、最初から最後まで、事件に立合っていた私に何も聞かなかった。そして、安藤刑事部長など私に本当のことを言うなと差しとめ、実際は朝鮮人半分、内地人半分だったと証言しろ、それ以上のことは絶対に言うなと私に強要した。私も言われた通り証言した。

私は大正十五年まで本庄署にいたが、事件の真相を尋ねに来た人には皆同じこと(内地人半分)を言っていたのをおぼえている。私はいろいろ町会から表彰されたが、最初はすべて県からそれを押さえられてしまった。理由は事件があったことがわかってしまうからということだった。私は後に金時計を四個も貰った。神保原での死体処理も私がやったのだ。それから検事に呼ばれたとき「熊谷は本当は五十七人らしい」というのを聞いている。