映画「靖国」:神社が映像削除要請 ドキュメンタリー製作の難しさ【2008.05.05】(毎日新聞)

http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20080505ddm012040019000c.html

 靖国神社を舞台にした映画「靖国 YASUKUNI」(李纓監督)について、神社側が「誤解させる内容がある」などとして一部映像の削除を要求している。一連の事態は、ドキュメンタリー作りの難しさを浮き彫りにした。【臺宏士】
 靖国神社が製作会社「龍影」(東京都渋谷区)に削除を求める通知書を出したのは4月11日付。
 関係者によると、神社は過去10年間に撮影許可申請を3回受けたが、「靖国」製作のための申請は受理していないという。作品では日本刀を「ご神体」と紹介しているが、「ご神体は日本刀ではない」と否定。映画に登場する神社職員を了解なしに撮影したことなども問題視し、「事実を誤認させるような映像が含まれている」として削除などを求めた。
 これに対して、龍影は4月25日、「靖国神社のご神体は何か」などについて回答を求める質問書を送付。靖国神社は1日付の通知書で、ご神体を「神剣及び神鏡」と回答し、社務所遊就館の内部の映像削除を新たに求めた。
 一方、毎日新聞など各社は4月、出演した刀匠の刈谷直治(なおじ)さん=高知市=と妻貞猪(さだい)さんが「政治的な内容でダメだ。出演場面をカットしてほしい」という意向を持っていることを報じた。3月27日の参院内閣委員会で、有村治子参院議員(自民)は「刈谷さんは承諾していない。本人に確認した」と指摘。出演についての了承の有無に関心が集まった。
 李監督は4月10日の会見で、「2月に入り、この映画は反日映画だという言葉が奥さんの口から出てきた。関係者や神社の意向などを考え、動揺し不安がっていた。具体的に作品について話した上で、奥さんから『これからも上映してください。頑張ってください』と言われた」と反論。龍影も「刈谷さんからは削除してほしいという要請はない」と静観の構えだ。
 この問題は4月14日に東京都内であった「靖国」について考えるシンポジウムでも取り上げられた。講演した映画監督の森達也さんは「刈谷さんが納得できなかったら上映できないのか。そうなると、映画をつぶすのは簡単だ。ドキュメンタリー映画は現実を切り取る。街や雑踏も映る。映った人が削除してほしいと言いだしたら、映像は撮れない。映像メディア全般の問題だ」と訴えた。
 取材協力者の期待に反したドキュメンタリー番組を巡る裁判が最高裁第1小法廷で争われている。
 旧日本軍の従軍慰安婦を取り上げたNHK特集番組(01年1月放送)に取材協力した市民団体「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」が「政治的圧力で事前説明と異なる内容で放映された」としてNHKに損害賠償を求めた訴訟。東京高裁は07年1月、「ドキュメンタリー番組では特段の事情がある場合、編集権より取材対象者の番組への期待と信頼が法的に保護される」と判断し、NHKが敗訴した。
 NHKは4月24日の上告審弁論で「取材対象者の意向に沿った番組を放送するか、放送(制作)しないかという選択を強制するものだ」と反論した。
 ◇「まず見て自分の意見を」−−試写会アンケ回答
 毎日新聞東京本社で先月27日に行われた試写会には72人が来場し、71人がアンケートに回答した。
 祖父が戦死し、靖国参拝の経験があるという横浜市の学習塾講師、小笠原由貴さんは「政治的な意図や反日映画という印象は持たなかった。映像を見て知らなかったことや驚きもあった」と話した。埼玉県ふじみ野市の主婦、北脇満子さん(65)は「反日映画と思っていたが右翼の主張に近いと感じた。一人一人が映画を見て意見を持ち、どういう判断をするかが重要。見る機会さえ失うことが怖い。自分の意見を発言できる社会を維持するためにも上映館が増えてほしい」と要望した。
 千葉市の無職男性(59)は「これを機会に先の大戦のこと、アジアの国々とのかかわりなどについて考え直したい」との声を寄せた。「巧妙に仕組まれた反日映画」との意見もあったが、「政治的中立性は保たれていた」=東京都世田谷区の男子大学生(21)「むしろ靖国礼賛。国内で靖国問題が語られることがいかに少なかったか痛感させられた」=横浜市の無職男性(82)などの意見が目立った。
 一部映画館で上映中止になった経緯については「面倒なことにかかわらないという風潮が社会にまん延し始めているのは危ない」=横浜市の男性国家公務員(39)「表現の自由が形骸(けいがい)化し日本的民主主義の脆弱(ぜいじゃく)さが露呈してきたように見える」=埼玉県草加市の男性教員(54)など、危機感を募らせる意見があった。
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 4月18日に新宿区内で右翼系団体対象に開かれた試写会では、「案外、親日的。靖国のことを考えたり、議論することはいいこと」との意見の一方、「とんでもない映画。日本人はもっと怒るべきだ」と話す人もいた。
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 ◇国会議員の関与、無視できぬ問題−−テレビプロデューサー(現代センター代表)・吉永春子さん
 −−映画「靖国」の感想は。
 ◆ドキュメンタリー映画というものは事件、人物を告発したり、状況を切り取ろうとする監督の強い意思が作品に反映されるものだと思う。中国人の李纓監督によるこの映画は「日本人とは何か」「日本人は何を考えているのか」ということを問い、真っ正面からさまざまな人々を見据え、登場人物の発言や背景を考えさせる力のある作品で、内容がなぜ問題になったのか分からない。
 −−靖国神社は無許可撮影で、「日本刀をご神体」とするなど一部映像も事実を誤認させるとして削除を求めています。
 ◆靖国神社と製作者の間でどんな約束があったのかは分からない。ドキュメンタリー製作には近年、神経を使うことが増えている。取材した相手には必ず放送についての了解を得るようにしているし、85年の中曽根康弘首相(当時)による参拝取材では2日かけて靖国神社と話した。プライバシー意識の高まりでドキュメンタリーはがんじがらめになっているのは事実だ。その中で一カット、一カット細心の注意を払いながら放送するのは、そうやってでも「伝えたい」という気持ちがあるからだ。そうでないととんでもないところで足をすくわれかねない。
 −−取材相手の了解を得られない時もあります。
 ◆了解を得られなくてもいいというのは、国民の知る権利に応えるような事件や人物を告発するケースだろう。それだけの価値があるのであれば、知る権利を根拠に議論すればいい。取材相手からの要求を突っぱねたり、作品の意義を説明して説得するなど、監督やプロデューサーが根気強く行う「覚悟」があるかが重要ではないか。プライバシーや肖像権、著作権などたくさんの制約がある中での努力を怠れば、苦労して作った優れた作品であっても揚げ足を取られる議論に終始してしまう恐れがある。
 −−試写会を求めたり、出演者に連絡を取るなど国会議員による関与が指摘されています。
 ◆国会議員が出演した刀匠側に連絡を取るなど信じられない。監督と刀匠は良好な関係だったと考えられる。いろんな動きが起きて刀匠側も不安を感じることはあるだろうが、両者が誠実に話し合うことで解決すべき問題だ。国会議員が口出しするようではドキュメンタリーは製作できなくなってしまう。製作者側に不安が広がり、「問題のない作品を作ろう」と言い出したら、戦前と同じだ。表現・言論に携わる者として無視できない問題だ。