東京・重慶・戦禍の空の下:大空襲・大爆撃訴訟を追う/3 /東京【2008.03.09】(毎日新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080309-00000107-mailo-l13

◆棄民
◇惨状伝える「夢違地蔵尊」−−残された子の受難
 墨田区を南北に流れる大横川が、新大橋通りと交差する地点に架かる菊川橋。橋のたもとにある児童遊園内に建つ夢違(ゆめたがえ)地蔵尊。その縁起史碑は「この地の殉難者数約三千余名」と大空襲の日の惨状を伝えている。
 久しぶりに橋に足を運んだ東京大空襲訴訟原告団副団長の城森(きもり)満さん(75)=横浜市都筑区茅ケ崎東=は、たもとにしばし、たたずんでいた。あの日、父母と末弟の命が奪われた苦い過去を思い出させる場所だったからであろうか。
 「橋は両方向から逃げまどう人たちでごった返し、火の海は橋の両側から迫って退路を断ち、最後に父は川に飛び込んだと聞いていますが、3人はいずれも亡くなりました」
 城森さん一家は空襲当時、本所区(現墨田区)菊川町に住み、父母に、兄弟4人(男3人、女1人)の6人家族。父弘さん(当時46歳)は弁護士でクリスチャン。弁護活動の傍ら、日曜学校の運営にも力を注いでいた。長男満さんは当時、12歳。学童疎開先にいて難を逃れた。
 城森さんは両親らの死を疎開先で聞いた。城森さんと妹(当時10歳)、次男(同8歳)の3人は戦災孤児になった。戦後に続く苦しい日々はここから始まる。城森さんらは母の実家で農業を営む伯父宅に引き取られた。
 毎日の畑仕事に朝夕の牛の世話。学校以外の時間は午前6時から午後9時まで休みなく働かされ、慣れない仕事がつらかった。加えて、農作業中に、伯父の息子たちによる嫌がらせと「食いっつぶし」という罵声(ばせい)を浴びる日々。
 城森さんは学業を続けるのが困難となり、旧制中学3年で中退。伯父の家を飛び出し、繊維関係の企業に就職。社員寮での生活を始めた。その後、次男、妹もそれぞれ他の親類に引き取られた。
 「戦争で多くの犠牲を強いられたのは子どもたちです。学童疎開閣議決定により政府が推進した国策でした。疎開で親と子どもを半ば強制的に引き裂き、空襲で親が犠牲となり、取り残された子どもに戦後も救援の手を差し伸べず、放置してきたのは政府です。戦災孤児のその後は棄民同然でした」
 城森さんを裁判に駆り立てたのは、両親を含め家族6人を失って学校を中退、奉公生活を強いられた戦災孤児がいたように、自身の体験より、さらに差別的な扱いを受けながら、歯を食いしばって生きてきた人たちがいる現実を目の当たりにしたことからだった。【沢田猛】=つづく