沖縄戦〜集団自決の真実

※この報告はmixiのロンさんが日記(12月27日)に書いたものを転載させていただきました。(コルチャック先生)



今月、西本願寺幌別院で行われた講演「沖縄戦〜集団自決の真実」を聴いてきました。
話をした方は、沖縄・ケラマ諸島の渡嘉敷島で生まれ育った吉川嘉勝氏。
大勢の人が集った9月29日の沖縄県民大会でも話されていた方です。
要約しながら吉川氏の言ったままを書いていきます。

「この講演を北海道で行うにあたり、知人から沖縄のことなど北海道の人に分かる訳が無いと言われたが、やってきました。
9月29日の集会には小さい子から学生まで若い人がいっぱいでした。
沖縄の戦後の教育が理解されたものと思ってます。

琉球王朝時代は武器を持たずに平和に暮らし中国との貿易で潤っていました。
ケラマ諸島は風光明媚(ふうこうめいび)な所で世界に誇る美しい海があります。
沖縄は日本の縮図です。明治以降の国策、公民化政策は負の結実です。
渡嘉敷、座間味は小さな島。
ここでの出来事を、なぜ文部科学省が決めることが出来るのか?

昭和19年、特攻艇の基地ができました。
朝鮮人が、船を隠す壕堀りや、日本人の食料運びなどをろくな飯も与えられずに従事してました。その人たちが生きている限り日本人は許されないかもしれません。

終戦の年、私は6歳。そんな子どもに何が分かるかという意見があります。
でも、後に本で読んだことではなく自分自身と家族の体験を言います。

あの日、住民は「西山に集まれ」と言われたのです。
軍の赤松隊→巡査→防衛隊を通して連絡網が回ってきました。
住民たちは、そこに行けば軍が守ってくれるものと思いました。
しかし、近くに壕などの逃げ場も無いその場所で艦砲射撃の嵐が始まります。
とても小さな島に鉄の暴風が撃ち込まれたのです。
赤松隊の兵士達は掘らせた壕に避難していました。

そんな時、赤松隊と住民の間を行き来していた防衛隊員が村長に耳打ちをします。
村長はうなずき、そしてバンザイが始まったのです。
推測ですが、あの耳打ちは命令ではなかったかと思います。
母は冷静でした。
「命は宝だ。生きられるまでは生きるんだ。死ぬのはいつでも出来る」と言われました。
父は艦砲射撃で頭から血が噴き出してました。義理の兄は失明。
あの時、死のうと思っていた人はいません。そういう状況をつくられてしまったのです。
あまりにインパクトが強すぎて前後はよく覚えてないが、その瞬間はよく覚えてます。
それから3日、山の中で暮らしマラリアにかかった人もいました。
渡嘉敷島の死者は329名。そのうち200名は半日の自決で亡くなりました。
自決場で生き残った人を治療した米兵もいましたが、日本兵は逃げました。
生きる見込みが無い人にはモルヒネを与えました。

なぜこんなことになったのか?
そこに軍隊が来て、もろもろの指示や誘導があったからです。
各家庭には壕があり、そこに避難していれば良かったのに、何の避難場所もない所へ連れて行かれた。
赤松隊は巡査から「住民からどうしましょうと聞かれた」と言われ、「西山へ集めた方が良い」と示唆しています。
当時、島は孤立状態で赤松隊長は天皇的存在でした。
「集めた方が良い」は、「集めなさい」に等しいのです。

手りゅう弾は辱めを受けそうになったらやりなさいと指示されました。
32ヶが最初に配られ、20ヶ追加。
防衛隊は軍隊の一員で、スパイ容疑で殺されている人もいます。
彼らは手りゅう弾の使用に卓越していたから爆発したのです。
家族が軍の壕に行ったら追い払われてしまいました。

沖縄人は言葉など様々なことで差別を受け、日本人になることを強要されていました。
立派な日本人になりたいという気持ちがありました。
小学生から特攻艇を海に出す訓練をさせられています。情報は筒抜けです。
自決は、家族が皆死んで一人残されては可哀そうという「兄弟愛」で片付けられるほど単純なものではありません。捕虜になれば女は強姦され男は虐殺と吹き込まれている。
「自決の誘導」ではなくて何なのか。
自決と知覧の特攻兵の死の痛みは違います。特攻兵は天皇陛下のために死んでいった。
自決場所と赤松隊の避難場所は1kmも離れてませんが、何が起こっているのか知らなかったと彼らは言ってます。

家に戻ると食料は無かった。軍に取られたのだろう。でも軍人にもいい人はいました。
防空壕の中で泣き止まない我が子の口の中に綿を詰めて死なせたり、出て行って母子もろとも射殺されたりもしました。アメリカ兵に保護されることもありました。
戦争は命に無関心です。勝つためにありとあらゆる手段を尽くすのが戦争です。
二度と繰り返したくないものこそ戦争。
間違いないことは、愛しい我が子を失くして悲しみの中で生きる母親がいるということです。
戦争のことを、戦争を知らない人が言っているのです」

吉川氏の話はここまでです。
配られた冊子に載っていた詩が、そのまま私の感じ方になります。

「真実を覆うもの」 詩創作 : 打本 顕真

座敷の奥の長押に掲げられた
若い兵士の遺影があった
終戦半年前に召集され
沖縄で戦死したという
いっしょに出征した人々もみな死んだ
年老いた母親は
目をしばたたせて呟いた
もう半年遅れていたら・・・
無念そうな母親の顔を
いまも忘れることができない
このひとは沖縄戦のなかで
何をし
どうやって最期を迎えたのだろう
間違いなくわかったこと

それは柱とも頼む愛し子を失って
悲しみをたたえて生きる母親が
ここにいるということであった

基地の島・沖縄
戦場となった島・沖縄
そして
沖縄に犠牲を強いることによって
日本は戦後復興を果たしてきた
(一部省略)

政治的な圧力によって
教科書が書きかえられているのに
その訂正を求める沖縄県民の声を
政治的圧力と言いかえる詭弁

人間はことばを使う動物だ
だが そのことばによって
ひとはひとをだまし
ごまかされてもきた

テロとの戦い
国際貢献
「人道復興支援」
それさえいえば
すべてが認められる
そんな雰囲気を私たちは許し
そして 作ってきた

自由主義史観なるものが跋扈している
歴史の真実を
真っ当に見つめようとする人びとに
はりつけられるレッテル・・「自虐史観
南京虐殺はなかった」
「侵略ではなく進出」
「アジアの人びとを開放するための戦争」
「沖縄の集団自決に日本軍の関与はなかった」
それらの声の行き着く果てに
憲法改定がある

なぜ日本はアジアの人びとを
踏みつけにすることができたのか
なぜ私たちは
沖縄の人びとを死に追いやり
戦後は沖縄の人びとを踏み台にして復興し
しかも沖縄のうめきを
無視することができたのか
その根底には
根深い差別がある

差別の罪業性を
いまこそみずからに問うていきたいものだ
沖縄集団自決 軍の強制認めず
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