<報告>映画「オレの心は負けてない」上映&梁澄子さんのお話

「宋神道さんと共に歩んだ16年」に参加して

 映画「オレの心は負けてない」と梁澄子(ヤン・チンジャ)さんのお話を聞きに、13日(日)京都の「ひと・まち交流館」へ行って来ました。

 いままで、数回「証言集会」に参加してきたので、今回も宋神道(ソン・シンド)さんの重いハナシを受け止めるつもりで、京都へいきました。。。が。

 案に相違して、上映中はすすり泣きの声と爆笑の声の交錯!

なぜ?
 そもそも、なんで「オレの。。。」なの?強制連行されて強制労働させられた男性のハナシじゃなく、慰安「婦」のハナシがなんで「オレ」なの?とアタマの片隅にありましたが。。。

 それは「宋神道さん」という、強烈に魅力的なキャラにあります。
早口の韓国語なまりの日本語。で、ご自分のことはいつも「オレ」、小さい頃からガキ大将タイプの宋さんの勝ち気で明るい性格、ポンポン飛び出すホンネ、記者や放送関係者がいようが、カメラがまわってようが、いつ飛び出すかわからない「放送禁止用語」。

 というわけで、開場はずっと笑いにつつまれていました。
それと、この映画は宋さんの受けて来た「性奴隷」としての被害の証言ではなく、宋さんと彼女の裁判を10年にわたって支えて来た「在日の慰安婦裁判を支える会」(以後「支える会」)の二人三脚(?)の記録なのです。
 で、映画の中身をくわしく述べるのも野暮というもの。
是非、この映画を見て「宋神道さん」というキャラに触れてください。
そして、支える会の奮闘を見てください。泣けて笑えて感動すること保証付き。


 というわけで(こればっかり!)これ以後は、梁澄子さん(「支える会」で宋さんに主に関わって来た在日で一橋大学講師)のお話の中で注目すべき点を、ご報告いたします。(もちろん、勉強になったこと満載のお話でしたが、ワタシとして「これは忘れんとこ!」と思った事を二つほど)

 まず、宋さんと梁さんの出会いは、梁さんたち「支える会」へ「仙台に一人元慰安婦らしい女性がいる」と第三者から電話があったこと。「支える会」では、本人からの申し出でないので訪れるのは止めようと判断したが、梁さんが秘密で訪問したのがきっかけ。
その時の宋さんからの初めての言葉が「お前は朝鮮人か?オレは朝鮮人はきらいだ。」だったといいます。
 梁さん曰く「針の入るほどのすきまもないくらい厚いよろいを着た人」というのが宋さんの印象だったといいます。それくらい、容易には解けない不信感(朝鮮人にも日本人にも)のかたまりだったそうです。過去の話を聞くにしても、裁判のハナシを勧めるにしても、なかなか信頼してもらえない。
カマかけられるわ、ハナシをそらされるわ、ウソはつかれるわ「言い方はなんだけど、なんでこんな『いやな婆さん』のために闘わなくちゃならないの?」(梁さんが言ったのです、もぐらじゃありません(^^;))と思うこともあったとか。「支える会」のご苦労は察して余りあるものですが、宋さんのうけてきた扱いを境遇を考えれば、宋さんが鎧を着た人になっても当然だろうなとも思いました。そんな「支える会」へ宋さんから「オレは『支える会』の人をいちばん信用しとるよ」の言葉が出たのは5年目。5年かけて勝ち取った「信用」なのです。本当に頭がさがります。
 梁さんはいいました。
「普通、市民活動グループは仲間割れが結構あると聞きますが、ワタシたちはいつも仲が良かったです、っていうのも何もワタシたちが特別なわけじゃない。共通の敵、ひとつは「日本国」という強大な権力、ひとつは「宋さん」というこれまた手強いおばあさん。これらを相手に闘って来たからです。」と言われるくらい、初めのころの宋さんはなかなか信頼してくれなかったそうです。

 で、前置きが長くなりましたが、梁さんのお話で勉強になったこと。

(1)元性奴隷被害者の記憶について

 宋さんは、非常に記憶力がいいそうです。当時の戦況や軍隊のことをきくと
すべてかなり細かく憶えている。軍隊については「第○大隊、第×分隊」と言うような数字まで正確に言えるそうです。で、梁さんたちは、宋さんの証言記録を歴史学者吉見義明さんに検証してもらったそうですが、吉見さんもびっくりするくらい正確であったそうです。「ちょうどそのころ、その地域でそう言う戦闘があった」とか「たしかに、第○大隊はそこに駐屯していた」というように。
 ところが宋さんが話であいまいなところが二つある。
1.初めて兵の相手をさせられた時の状況
2.宋さんは何回か妊娠し、死産、堕胎もあったが、2人だけ生まれた子供が
いる。それがどこでなのかあいまいである。

 宋さんに「いちばん苦痛だったことは?」と聞くと弾が飛んで来る所で兵を相手にセックスしなければならなかったこと。。。などが出て来る。
他の多くの性奴隷被害者のように「初めて兵の相手をさせられたこと」が出てこない。
 でも、裁判を闘うには、これは必ず聞かれるので女の弁護士が二人掛かりで「初めての時のことをおしえてください」と聞いても、ハナシをそらす。
さらに、聞いても今度は「なんでそんな事聞くんだ、それじゃもう裁判はやめだ!」と怒り出す。それでもさらに(一人の弁護士は半泣きで、もう一人は
極めて冷静に「それで?」)追求すると、逃げられないと知った宋さんの目が宙をただよい、わぁ〜〜〜っと号泣(宋さんのすすり泣きは見てきたが、号泣は後にも先にも一回きりだったという)して、「オレはもうだめだ、もうだめだ」と言ったといいます。つまり、本当にその部分の記憶が欠けているのです。
 梁さんがジュディス・L・ハーマンが主張する「複雑性外傷後ストレス障害」の診断基準にあてはまるということを説明してくださいました。
くわしい、心理学的な説明はここでは省きますが、あまりにもつらい経験はその人の記憶を狭窄する、つまり狭めてしまう。記憶が欠けてしまうことがあるそうです。
2.の二人の赤ちゃんが生まれたこともおそらくそれで場所の記憶がないのでしょう。せっかく生きて生まれた赤ちゃんを自分の手でそだてられない苦悩。

 よく、「『元慰安婦』を名乗る人は証言がころころ変わって信用できない」という批判がありますが、証言は彼女らのこうした心理的な障害も考慮にいれて聞く必要がありそうです。


(2)慰安所が誰によって設置・運営されたかについて

 もちろん、軍直営の慰安所もありました。
隊が移動する時は、移動する前に移動先にまず「慰安所」を作るのが通例で、それは隊の副官がまず先に行ってやる仕事だったと役割まで決まっていたそうです。なぜか、というと「慰安所」がないまま兵たちを移動させると、その移動先ですぐさまレイプが起き、駐屯先で地元と穏便にやっていけなくなる、というのがその理由だったそうです。
 ところが、軍が直接かかわるとどうしてもトラブルが起こる。軍人は「女」の扱いも「客」の扱いも素人であったから。そこで、朝鮮の(現地の)買春業者を呼んで、直接の仕事を彼らに当たらせたということです。
ですから、よく「あれは朝鮮の業者のしわざだった。軍は直接関与していない」は、まったくのまちがいで、「軍が『現地業者』を使って運営・管理した」が正確な所だそうです。
 くりかえしになりますが、軍直営の「慰安所」もあったのです。
慰安所」運営の仕方を軍で指導されたという、元兵士の証言もあります。

 この実態を聞いて、あれは「現地業者のしわざ」というのはどこかで聞いた
パターンだなぁ、と思ったら。。。
 そうだっ!「吉兆」の偽装を「あれはアルバイトが勝手にやったことです」
という、社長の言い分と構図が一緒じゃないか。。。などと思うもぐら。

 宋さんと「支える会」、お互い手探りしながらも、きっちり10年の
裁判闘争を闘い抜いた記録映画、ぜったいおすすめです。


         宋さん、いつまでもお元気で!
         梁さん、感謝をこめて!

※この報告はmixiのもぐらさんの日記に掲載されたものを転載させていただきました。
(コルチャック先生)