第21回 アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む集会レ

 去る8月15日、大阪で行われた「第21回 アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む集会「南京虐殺と日本のいま」」のレポートです。mixiの知人の日記をコルチャックさんが転載してくれました。(梁英聖)

昨日の夜中大坂から帰ってきました。
夜行バスで腰を痛めながら眠り
朝梅田に着いて、地下鉄で逆方向に乗る。
エスカレーターでは左に立ってしまう。
帰りもまた逆方面に乗ってしまい
新幹線に乗り遅れた。
あっという間でした。
何を隠そう夏さんに会いに行ったのだから
忙しくで当たり前。
とりあえず元気な夏さんに会えてとても嬉しかった。
刻む会つながりでマイミクになった大坂の
ガキノスケさんの日記に
大坂の集会のことが詳細に書いてあるので
転載させてもらうことにしました。
ぜひ読んでみてください。
ガキノスケさん、ありがとう!

野中さんってこんな人だったんだ。
全く知らなかった。。

・・・・ここから転載・・・・

野中広務南京虐殺
 「第21回アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む集会」は、昨年よりも100人多い、500人の参加で、無事終了することができました。


 特に、印象深かったのは、野中広務さんのお話でした。

 自民党の大物政治家として、長い間、権力の中枢にいた野中さんが、このような集会で、南京虐殺や自身の戦争体験について語るというのは、すごいことだと思います。

 講演では、野中さんのとても貴重な戦争体験を聴くことができました。

 南京虐殺に関する部分のみ紹介します。 


 野中さんは、南京虐殺について、次のような体験を話してくださいました。

 71年に、後援会員200人と南京を訪れた。城門にさしかかった時、あるひとりの後援会員が、がくがく震えだし、倒れて動けなくなった。看護士を呼んで手当てをし、1時間後、平静を取り戻した彼に事情を聞いてみると、彼は、自分は京都の福知山第20連隊で南京戦に従軍し、戦争の時、まさにこの場所にいて、そのことを思い出した時、体ががくがく震えて、足が地の底に沈んだように動けなくなった、と言った。そして、私は、彼から南京戦のことを聞いた。

(以下、彼の話)

 南京へ向う途中、5人の中国兵が土手で手を合わせて命乞いをしていた。その時は、「彼らにも家族があるんだ」と思って、残り少なくなっていた水筒の水を彼らに与えた。彼らは涙を流して喜んでわれわれの姿が見えなくなるまで手を合わせて拝んでいた。
 南京市内へ入っていって、掃討戦が行われている時、私が土のうの大きな扉を開けると、そこにはたくさんの女性と子どもがいた。私が、「ここには女性と子どもしかいません」と上官に言って扉を閉めようとすると、上官は、「何を言ってる! そこに便衣兵(ゲリラ)がいるんだ。例外なしにやってしまえ!」と言った。私たちは、目をつぶって、女性と子どもを殺さざる得なかった。
 これが戦争から帰って、ずっと私の夢にあらわれてきて、うなされることがあった。いつも心の傷になっていた。今日、南京に来て、当時のことを思いおこすと、もう立っていられなくなった。

 こんな話を彼から聞いた。

 このような体験を、野中さんがしていたことは驚きでした。

 野中さんは、その後も何度か南京を訪問され、96年には、日本人政治家としてはじめて、南京虐殺記念館を訪問し、また、日中友好協会の会長として、頻繁に中国を訪れ、残留孤児や、日本軍の遺棄化学兵器がもたらしている実態などを見て回ったそうです。

 
 講演後も残られて、南京事件で家族9人のうち7人を殺害されるという体験をした夏淑琴さんの証言を聴いていた野中さんは、涙を流していたそうです。

 そして、花束贈呈では、野中さんが夏さんに花束を渡していました。


 野中さんは、「皆さんにとっては私は自民党の極悪人だと思いますが…」とか、「皆さんにとって、私は保守反動だということになるのだと思いますが」とおしゃっていて笑いをとっていましたが、どういう立場の人がやっている集会かを百も承知の上で来てくださっていること自体に、野中さんの戦争に対する特別な熱い想いを強く感じました。

 
 野中さん自身も、45年3月に召集され、将来指揮官となるための幹部候補生の試験を受けた後、高知の部隊で、米軍の上陸にそなえて壕を掘る土木作業などに従事していたそうです。

 連隊本部へ食糧をもらいに向っていた時、立ち寄ったおばあさんの家で、はじめて敗戦を知ったのは、8月17日。終戦から2日たってのことでした。

 
 敗戦を知った野中さんは、高知の空港で特攻隊になる訓練をうけ、出発の時に別れを惜しんだ仲間の顔が忘れられず、「米軍が上陸してきたら、自分たちは殺されるか、捕虜になるかのどちらかだ、それならば、いっそこの場で死のう」と、仲間4人とまさに死のうとしている時、上官がやってきて、野中さんや皆を殴って、「こんなところで死ぬくらいなら、東京にいって、あやまった戦争をした東条英機を殺してこい。死ぬのはそれからでも遅くない。そして、命ながらえたら、日本の復興のために協力せよ」と諌めたそうです。

 その時の野中さんの仲間のひとりは、実際に東条を殺そうとして亡くなったそうです。


 野中さんのその後の政治活動には、この戦争体験がつねに原点としてあったんだなぁ〜っと、お話を聴いて強く感じました。


 あの戦争をきちんと「侵略戦争」と呼び、今回の自民党の大敗を「天誅」といい、小泉前首相を「アメリカの使用人のよう」と批判し、テロ特措法で米軍のために膨大な経費を使う一方社会保障費を切り捨てることに憤り、刻む会が21年間このような集会を続けてきたことに敬意を表してくださった野中さん。
 
 今、野中さんのような自民党議員がどんどん減って、南京虐殺を否定する戦争を体験していない自民党議員が増えています。