被団協滋賀県組織が5月に解散【2008.07.28】(産経新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080728-00000939-san-soci

 日本原水爆被害者団体協議会(被団協、東京)に加盟する滋賀県被爆者友の会(小寺博会長)が今年5月、後継者不足を理由に脱退届を出し解散していたことが28日、分かった。都道府県レベルの地方組織の解散は、平成18年3月の奈良県組織に続き2件目。
 被団協と友の会によると、友の会は昭和33年に結成され、全国の都道府県組織と同様、語り部活動などを通じて被爆体験の継承を目指してきた。平成7年の平和行進には延べ133人が参加したが、高齢化で存続が困難になってきたことを主な理由に脱退届を提出したという。
 被団協は「後継者が育っている都道府県組織もある。存続のためには、語り部活動しかできなくても、後継世代に役割を分担していくことが必要になるだろう」としている。

元ひめゆり学徒隊の宮良ルリさんが講演−「平和を考える集い」で【2008.07.28】(石垣経済新聞)

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 八重山地区婦人連合会による「平和を考える集い」が7月26日、大川公民館(石垣市大川)で行われ、石垣市登野城出身でひめゆり学徒隊だった宮良ルリさんが講師を務めた。集いは同連合会の活動の一環として行われたもの。
 宮良さんは「わたしの『沖縄戦体験』から平和を考える」と題して講演。当時18歳だった宮良さんは沖縄県女子師範学校に在籍。沖縄戦突入により学徒動員され、南風原陸軍病院に勤務することになる。陸軍病院とはいっても壕(ごう)の中の病院で衛生的にはひどい状態だったという。「尿や血などで誰もが一度は吐いてしまうほどのすさまじい臭い。薬も満足にない状態で、包帯の交換なんて1週間に1度だけだった」と宮良さんは陸軍病院の様子を生々しく語った。初めて遭った負傷者の死についても話し、「その兵隊さんは両手を切断した人だった。手を握ってほしいと言われて、腕をにぎり声をかけた。最後には『お母さん、お母さん』と言いながら亡くなった。ほとんどの人が母を呼びながら亡くなる」と述べた。
 その後、命令により南部に撤退した宮良さんたちは、現在の「ひめゆりの壕」へ避難。そこで解散命令が出されたが、脱出する明け方に米軍のガス爆弾を投げ込まれた。奇跡的に生き残った宮良さんは壕を脱出。さまよっている所を米軍に囲まれ捕虜となった。「その時はなぜ死ねないのかと思った。今では戦争の悲惨さを伝えるために生き残されたのだと思っている」(宮良さん)という。
 宮良さんは「今の平和は戦争によってすべてを失った代償としてあるもの。それを伝えて、残していかなければならない」と力強く訴えた。参加者は宮良さんの話に時折目頭をおさえながら聴き入っていた。

沖縄戦、教科書問題も紹介 埼玉「平和のための戦争展」【2008.07.28】(琉球新報)

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 【埼玉】「2008平和のための埼玉の戦争展」(同実行委員会主催)がさいたま市浦和駅前コルソで開催されている。28日まで。
 同展は25回目。「この子たちの未来のために世界を変える人になろう」とのテーマを掲げ、戦争や貧困など平和を脅かす問題の克服を市民一人一人で考えようと呼び掛けている。
 沖縄戦教科書検定問題についても紹介。実行委員会事務局の岡嵜聡介さんは「沖縄の問題を私たち自身の問題としてとらえるため、沖縄コーナーを毎回設けている」と話している。

<原爆症認定訴訟>厚労省が控訴 大阪地裁判決を不服とし【2008.07.25】(毎日新聞)

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 被爆者が国に原爆症認定を求めている集団訴訟で、厚生労働省は25日、原告4人を原爆症と認めるよう命じた18日の大阪地裁判決を不服として控訴した。「判決は最新の科学的知見に反するものがある」と主張している。厚労省はこれまでの原爆症認定訴訟でも、1審敗訴分は控訴している。

(K−K)

被爆前後の本通り映像48本【2008.07.24】(中国新聞)

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200807240200.html

 1945年8月6日、原爆で壊滅した広島市中区の本通り。在りし日の姿と焼け跡が8ミリフィルムに残っていたことが23日、分かった。被爆前後の爆心地付近を、定点的に記録した映像は極めてまれだ。市内最大の繁華街のにぎわいと静寂。その対照は原爆の悲劇性を映し出し、広島をたどる貴重な資料となりそうだ。
 撮影者は、爆心地から約400メートル東の革屋町(現中区本通)で服地店を営んでいた吉岡信一さん(66年、71歳で死去)。37年ごろ撮り始め、その8ミリフィルムの一部、48本を長男の宏夫さん(82)=安佐北区=が保存していた。戦中の本通りを約15分、焼け野原の市街地を約2分半、映す。
 吉岡さんは三井銀行広島支店(後の帝国銀行広島支店、現広島アンデルセン)の正面に店を構え、周辺を撮影。胡子大祭(えびす講)に合わせた売り出し「誓文払い」のにぎわい、防空訓練を活写する。のどかな雰囲気も残り、市公文書館は戦時色の薄い37―40年ごろの映像とみる。
 被爆後の本通りは焼け野原にうってかわる。がれきが散らばり、かろうじて大林組広島支店(後の山口銀行本通支店、2002年解体)、下村時計店が外形をとどめる。中区上幟町付近から南側を見回し、福屋百貨店や旧中国新聞社が焦土に残るシーンもある。
【写真説明】<上>【1937年12月ごろ】三井銀行広島支店(現広島アンデルセン)付近から東側を見た本通り。スズラン灯が通りを飾り、日の丸掲揚で南京陥落を祝う<中>【46年1月ごろ】焦土と化した本通り。東側を望むと、大林組広島支店(左)と安田銀行広島支店(右)、下村時計店(中央奥)がかろうじて姿を残す<下>現在の本通り

<韓国>ユネスコ事務局長の大統領表敬を拒絶 韓国紙報道【2008.07.23】(毎日新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080723-00000000-mai-kr

【ソウル中島哲夫】ソウル新聞の23日付朝刊早版は、韓国政府の招きで訪韓しているユネスコ(国連教育科学文化機関)の松浦晃一郎事務局長が、日本の中学校の新学習指導要領解説書に竹島(韓国名・独島)領有権の主張が明記されたことを背景に、李明博(イミョンバク)大統領への表敬訪問を拒絶されたと報じた。
 同紙によると韓国政府消息筋は22日、「独島問題で大統領の気分が悪い状況で、日本人事務局長との面談が雰囲気を悪化させかねないという判断が働いたようだ」と述べた。
 松浦氏は00年と04年の訪韓の際、当時の大統領を表敬訪問した。
 この報道について青瓦台(大統領官邸)は「独島とは関係ない。領有権明記で摩擦が起きる前に表敬訪問の要請があり、儀典上、大統領ではなく首相が会うのが適切と判断した」と話している。

映画:沖縄戦生存者のドキュメンタリー「ひめゆり」を上映 金沢で来月1日 /石川【2008.07.23】(毎日新聞)

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 ◇「同世代の若者にぜひ」
 太平洋戦争中、国内唯一の地上戦が行われた沖縄戦で看護要員として動員され、多くの犠牲者を出した「ひめゆり学徒隊」。その生存者の証言を約13年にわたって記録した長編ドキュメンタリー映画ひめゆり」(06年)が来月1日、金沢21世紀美術館のシアター21で自主上映される。金沢での上映は初。地元でイベントを手がけ、今回の上映を企画した松田豊さん(61)は「学徒隊として働いた彼女たちと同じ年ごろの若い世代に見てほしい」と話している。【高橋慶浩】
 学徒隊は、米軍の沖縄上陸作戦が始まった45年3月、沖縄師範学校女子部と同県立第一高等女学校の生徒222人、引率教師18人で編成。配属先で負傷兵の看護などに従事しながら、旧陸軍とともに米軍に追われ敗走。同年6月の沖縄戦終結までに136人が犠牲となった。
 監督の柴田昌平さんは、NHK職員時代に勤務した沖縄県で生存者と出会い、制作を決意。94年3月から生存者22人の声を計約100時間にわたり記録した。映画はナレーションやBGMを使わず、2時間10分にまとめた。「いつまで生きていられるか分からない。体験を映像で記録して遺言として残したい」と話した生存者は、完成までに3人が亡くなった。
 スタッフと縁があって上映を企画した松田さんは「間接的にでも戦争を知る我々が、若い人にも体験を伝える義務があると思う。来年以降も上映を続けたいので、一緒にかかわってくれる人も募集したい」と話している。上映は午後3時と同6時半からの2回だが、現在は1回目のみ受け付けている。一般1300円、学生1000円。
 問い合わせは、JO―HOUSE高尾台店(076・296・0245)。