勤労挺身隊訴訟:深く刻まれた心の傷 羅さんにインタビュー /石川【2008.06.06】(毎日新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080606-00000301-mailo-l17

◇涙ながらに半生語る
 夢見て海を渡ったあこがれの日本は地獄でした――。太平洋戦争のさなか、「女子挺身(ていしん)隊」として朝鮮半島から強制連行され過酷な労働を強いられたとして、国と機械メーカー「不二越」(本社・富山市)を訴えた「第2次不二越訴訟」原告の1人、羅贊徳(ナチャンドク)さん(79)が、控訴審第1回口頭弁論(先月28日)の証人として来日。毎日新聞のインタビューに答え、涙ながらに自らの半生を語った。後悔や後ろめたさにさいなまれ、深く刻まれた心の傷を今、見つめ直そうとしている姿があった。【澤本麻里子】
 1944年3月、羅さんが15歳の時だった。村長から「日本にいい工場がある」と誘われた。書道や生け花なども教えてもらえるという。1カ月後、2年間の予定で地元から25人が旅立った。「両親は反対しましたが、技術を学んで、お金ももらえるという希望でいっぱいでした」と振り返る。
 しかし、労働は過酷を極めた。「朝の8時から夜の8時まで休みなく働かされ、休日もありませんでした。機械の操作を誤って指を切断した子もいました」。粗末な食事。給料は支払われなかった。手紙は検閲され、苦しい状況を家族に訴えることもできなかった。
 「1人が泣くと、みんなが泣きました」。日本語と朝鮮語で「いつか不二越去るでしょう」と願う歌を仲間と共に作った。今も覚えていると言って口ずさんだ歌は、哀愁の漂う心に染み入るようなメロディーだった。
 ある日、父が亡くなったと電報が来た。「泣きながら帰りたいと訴えましたが、許されませんでした。『お前が帰ったって、父親は生き返るわけじゃない』と、冷たく突き放されました」。かわいがってくれた父の反対を押し切って日本へ来た後悔ばかりが残った。
 「終戦直前、一時帰宅が許されました。母は私を見るなり、何も言わずに抱きしめて泣きました」。羅さんの目から大粒の涙がこぼれた。
 戦後、結婚し、3人の子に恵まれた。だが、ふとした瞬間にあの過酷な日々を思い出す。家族には「挺身隊」を「慰安婦」と誤解されるのを恐れ、戦時中の体験は秘密にした。夫は00年に亡くなった。そんなとき、不二越の仲間と町で偶然再会。訴訟のことを聞き、闘おうと決意した。「強制労働の事実を認めて、きちんと謝ってほしい。それだけなんです」。まっすぐな視線で語った。