東中野修道氏(亜細亜大学教授)講演レポート

 11月17日土曜日、午後6時〜8時に、東京都文京区の本駒込地域センターで、自由主義史観研究会の主催「南京事件研究の第一人者が語る歴史の真実 南京神話を追撃する」と題して、東中野修道氏(亜細亜大学教授)の講演会が行われました。
 南京大虐殺の70周年に当る年であり、また、主催が歴史修正主義の有力組織であることから、多数の参加者があるものと予想していましたが、会場定員200名のうち、参加者は50名程度という寒々しいものでした。また、参加者のほとんどが60歳以上の年配者であり、40歳以下は2〜3名程度しかいなかったこと、自由主義史観研究会のスタッフも3名程度だったことなどが印象的でした。司会は、研究会代表の藤岡信勝氏(拓植大学教授)が行いました。
 東中野氏は、まず、南京大虐殺研究をはじめる切欠を簡単に話した後、本題の否定論を語り出しました。以下、東中野氏の講演内容の要点をまとめたものです。項目名は、筆者が適宜付けさせていただきました。

【講演要旨】
1.東中野氏、大虐殺派、秦郁彦氏の研究の違い
 自身の研究は座標軸の中心に「一次資料」に据えたものであるが、「大虐殺派」は東京裁判に提出された埋葬記録を座標軸の中心に据えたものである。しかし、東京裁判で提出された埋葬記録(紅卍字会、崇善堂)のうち、紅卍字会は当時の記録が残っているが、崇善堂は当時、埋葬を行ったという記録が存在しない。「大虐殺派」は、「崇善堂が埋葬したという、当時の記録を出してこなければいけない。むしろ、崇善堂は開店休業中であったという記録があった」、「だから、東京裁判の埋葬記録を座標軸におく議論は成り立たない」と主張する。
 一方、秦郁彦氏は、「ベイツ教授の証言を座標軸の中心に据えているように思える」が、ベイツ教授が東京裁判で証言した虐殺数4万人説(市民1万人、兵士3万人)は、当時、刊行された文書の中で5回に渡って削除され、その文書にベイツ自身がサインをしている。したがって、当時からベイツ教授自身は4万人説を否定しているのである。
 「秦先生は、市民が1万人殺されたという根拠を出さなければいけない。秦説には、市民殺害の根拠はない」。

2.人口論
 シャルフェンベルグ(ドイツ大使館事務局長)、ミニー・ボートリンの記録や、陥落する5日前に中国軍から安全地帯外に避難しない者は射殺するという中国軍の命令もあり、安全地帯の外には食料がないことなどから、安全地帯の外は無人だった。
 当時の市民の人口は、陥落直前20万、陥落10日後20万、陥落1ヵ月後25万。市民が1万人殺されたという記録はない。むしろ人口は増えている。これらは、国際委員会の資料により明らかになっている。秦説は根拠がない。

3.兵士殺害
 当時、捕虜殺害を主張した人は誰もいない。捕虜とはPOW(戦時捕虜)であり、誰でもがなれるものではない。正規兵以外では、ハーグ陸戦規則第1条に規定された民兵義勇兵が捕虜待遇を受けることが出来る。しかし、便衣兵は「不法戦闘員」であり、捕虜にはなれない。
 秦氏は『南京事件 増補版』(中公新書、2007年)で、立作太郎『戦時国際法論』(1931年)の「全然審問を行わずして処罰をなすことは、現時の国際法規上禁ぜらるる所」という文章を根拠として、便衣兵処刑を違法と主張する。
 しかし、この立作太郎の文章の主語は「戦争犯罪人」「戦争犯罪」であるが、便衣兵は不法戦闘員であり「戦争犯罪人」ではない。
 立はその著書で、「戦争犯罪」の類型として5つの類型挙げているが、そのどれにも該当しない。吉田裕氏(一橋大学教授)は、立が挙げた5つの戦争犯罪類型のうち5番目の「その他」に該当すると主張したが、交戦者資格は戦争法規の最も重要な部分であると言われているにも関わらず、犯罪類型として「その他」に該当するはずがない。
 したがって、便衣兵は、戦争犯罪人ではなく、ましてや捕虜でもないので、裁判を行う必要はない。
 秦氏は、この点でも勘違いをしている。

4.当時の記録
 当時の外交官や中国側の記録では、南京陥落時の非行として掠奪・強姦のみしか指摘されておらず、目撃された強姦17件、掠奪は26件、放火1件であり、一方で虐殺は記録されていない。
 「南京の大使館も、大使館つき武官も、国際委員会も、国民党政府も同中央宣伝部も、上海の外国人記者も、誰一人として南京大虐殺と言った人はいない。」

 国民党の機関紙である『中央日報』は、南京陥落1周年の時に南京で20万虐殺があったと書いたが、本当に虐殺があったのであれば、それまでに何回も書いたはずである。
 南京陥落から漢口陥落までの約10ヶ月間に300回の記者会見を開いたにも関わらず、南京大虐殺について発表もせず、外国人記者からも質問も出ていない。
 南京大虐殺は戦争プロパガンダであり、事実ではないからである。

 当時の、その時、そこで関係者が作った記録に基づいて考えていけば、南京で大虐殺があったという記録がなかったから、南京大虐殺はなかったと言わざるを得ない。

5.各個の捕虜殺害ケース
(1)12月14日、第6師団歩兵45連隊第2大隊は、下関で5000名の中国兵を捕らえたが、これらはその場で解放した。
 虐殺を主張する人達は、この捕虜が行方不明となったから殺されたと主張するが、それは違う。殺されれば死体として残るはず。それが行方不明となったということは、捕らえられた中国兵は何処かに行ったのであり、殺されていないということである。
(2)第114師団歩兵66連隊は、12月12日、中華門で捕虜を捕らえたが、その時、激戦の最中に捕虜に食事を与えている。そして、翌日、12月13日にその捕虜を処刑する。これは、当初、城門が破壊すれば抵抗はなくなる、そうなれば捕虜を解放できると思い、捕虜に食事を与えたものの、13日に大激戦(例えば、12月13日午前6時ぐらい、中華門北西方面の新河鎮・上河鎮附近で2万の中国軍に45連隊11中隊160名が襲われ、中隊長以下十数名が戦死した)となったため、やむなく処刑した。
(3)中山門附近は、第16師団が戦闘を行っていた。門東方の紫金山では、33連隊や9連隊の兵士たちが、投降兵から手榴弾を投げられて負傷する。
 小原孝太郎の陣中日誌によれば、12月13日夕方に馬群で輜重隊が中国兵に襲われ、翌日も輜重隊は襲われ、70名の戦死者を出す。このとき、中国兵数名を捕らえたが、これらは射殺された。これは、捕らえられた中国兵が暴れた為と推測される。
 戦時国際法学者の信夫淳平は、ハレックの説に基づいて、給養することもできず、宣誓の上の解放もできない場合、最後の手段を取ってもよい、と書いている。このケースが、これに該当する。
(4)12月14日正午、堯化門において、中国兵7000名が投降する。その7時間前に、16師団では、「旅団の指示あるまで捕虜を受け付けるのを許さない」という命令が出ている。これを捕虜皆殺し命令だと、拡大解釈する人がいる。
 しかし、それは間違いである。「捕虜を受けるを許さない」と言っているだけで、殺せとは言っていない。当時は大激戦(例えば師団司令部附近での敵襲、仙鶴門では13日午前1時から午後6時まで激戦を行っていた)の最中であり、中国軍の動向が不明なので、捕虜を受け付けることを許さないで止まった命令である。臨機応変にその場の状況に応じることを求めた、差し迫った危難を回避する為の緊急避難的命令だった。
 もし、殺害命令であったとするならば、その7時間後に、堯化門で7000名の中国兵が投降してきた場合はすぐに処刑されたはずだが、これらは武装解除後に南京城内へ移送される。
 秦氏によると、堯化門の7000名の捕虜のその後は分からないというが、小原幸太郎が13日に下関で苦力として働いているところを目撃している。堯化門の捕虜は殺害されていないのである。
(5)12月13日午後2時半、下関港では33連隊が逃げる敵兵を殺戮した。これは、無慈悲であるという批判を受けているが、当時、揚子江下流には、第13艦隊の砲艦が南京を目指して遡上していたところ、両岸から敵の猛攻撃を受けていた。つまり、すぐ先で激戦が行われており、33連隊は戦闘中だった、逃げる敵兵を殺害するのは当然である。
(6)山田支隊の幕府山の捕虜殺害。まず、動かせない事実として、
1)中央宣伝部は日本の新聞を全部分析していたので、大阪朝日新聞に掲載された幕府山の捕虜の件は知っていたはず
2)幕府山の捕虜は1万5000名だったが、女・子供を帰して8000となった。12月14日・15日と捕虜が放火し、日本軍は消火をしたが、4000名の捕虜が逃げた。
3)中国軍に帰還した捕虜は、捕虜が殺されていること、そして、まだ残りの捕虜がいることを報告したと推測される。にも関わらず、国民党中央宣伝部は、幕府山の捕虜虐殺について一言も触れていない
4)東京裁判でも幕府山については一言も触れていない

 山田支隊長は、12月15日、本間騎兵少尉を南京城へ走らせるが、そこで「皆殺せとのこと、各隊食料無く困窮する」と言われる。この時、南京城内にいたのは第16師団のみである。第16師団が指揮下にない山田支隊に命令を下すはずがないので、この「皆殺せ・・・」というのは、参考までに答えたものである。

 殺害が行われた12月17日当時、幕府山の周辺は、山田支隊第65連隊の歩哨が襲撃され負傷しているような交戦中の状況にあった。したがって、捕虜の解放はできない、連行もできない。ましてや、死体の処理も出来ないのだから、殺すこともできない。一方で、第13師団司令部から揚子江を渡るように命令が出ている。
 そこで、12月17日、夜中に草鞋洲に渡そうとした。しかし、渡す途中に草鞋洲から銃撃を受け、その銃声に動揺した捕虜が暴れだし、やむなく撃ち殺すことになった、というのが真相である。
 この殺害の計画性がない根拠に、殺すのであればわざわざ暗い夜に連行するはずはない、真っ暗で射殺することは出来ない、同時に同一場所に大量の捕虜を連れて行くはずがない。

 飯沼守(上海派遣軍参謀長)は、「相当多数を同時に同一場所に連行したため、彼らに騒がれ、ついに機関銃の射撃の乱射、日本軍の死傷者が出たという噂がある」と書いているが、もし、派遣軍司令部が命令を出していたならば、結果を報告していたはずであり、「噂がある」などという文章は書かない。「ついに」とは、釈放しようとしたのだが、とうとう、捕虜の逆襲にあって「ついに」やむなく機関銃を発射したということである。したがって、命令は出ていなかった。

7.捕虜の兵民分離
 秦氏の説によれば、捕虜の中に市民がいた、あるいは捕虜と便衣兵がおり、区別しなかったのが悪い、という考えがあるが、第7連隊の仕官によれば、摘出した捕虜を台上に立たせ、市民に公開し、家族などにより区別させていた事実がある。また、軍帽の跡、目つきの鋭さ、などを基準としていた区別をしていた。これらは、捕虜の処刑ではなく、不法戦闘員の処刑なので問題ない。

 以上が、大まかな講演の要旨です。全体の印象として、非常に秦郁彦氏を意識した内容となっています。今年の7月に出た秦氏の『南京事件 増補版』(中公新書)に、東中野氏を含む「まぼろし派」に対する批判が書かれていることを根に持っているのではないかと思われます。
 しかし、それ以上に印象的なのは、東中野氏の主張が、より一層支離滅裂となって来たところです。今までに批判されて来た主張を繰り返す、文章の曲解、以前に示した見解を説明もなく翻すなど、およそ学者とは思えないような主張のオンパレードです。
 先日、夏淑琴さん名誉毀損訴訟の地裁判決において、「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というには値しない」と断じられましたが、今回の講演で聞いた主張のほとんどは、「学問研究の成果というには値しない」ものだと言えるでしょう(なお、各論に関しては、後日、反論していこうと思っています)。
 東中野氏も、この程度のことしか言えないようでは、新たな否定論の論客として注目されつつある北村稔氏に、否定論第一人者の立場を奪われるのも時間の問題ではないでしょうか?南京大虐殺否定論の転機が見ることが出来たという意味では、意義のあった講演会だったと思いました。

(K−K)