院内集会「旧日本軍兵士に聞く〜安倍総理訪米を前にして〜」

 本日11:30から、参議院議員会館第2会議室にて、「日本軍『慰安婦』問題行動ネットワーク」主催による院内集会が行なわれました。
 台湾・韓国・中国・フィリピンの元「慰安婦」の方が証言されているビデオが上映された後、元日本兵の小山一郎さんと坂倉清さんから、当時の慰安所や「慰安婦」に関する証言が話されました。

 小山一郎さんの話:
 現在87歳。1940年に召集され、それから1945年までのほぼ5年間の兵役生活を、ほとんど山東省で過ごしました。
 初年兵教育の第1期(約3ヵ月)を終え、第2期に入るとすでに戦場での実践をともなった訓練をさせられました。そのなかで生きている中国人を突き刺して度胸をつけるという「刺突訓練」もやらされました。
 訓練期間が終わるとようやく外出許可がでて、そこで初めて慰安所の存在を知りました。
 当時は第12軍司令部の警備隊として、(山東省)済南にいました。外出するときは、1人で歩くのは危険だからと、かならず3〜4人で行動するように言われ、さらに週番下士官から「突撃一番」を必ず手渡されました。(注:「突撃一番」とは、コンドームの名前です。)
済南の○○倶楽部(聞き取れず)には、中国人女性が16〜17人並んでいて、その中から選んで部屋に入っていきました。このほかに「桜荘」という将校専用の、高級レストラン兼慰安所もありました。
 また、山東省の浜県に行ったときは、6人ぐらいの朝鮮人女性がいました。
 当時は強制的に連れてこられたかどうかということは、まったく知りませんでした。衛生兵だった人の話によると、「あの子たちは可哀想だ。挺身隊だとしてウエイトレスをすると思って連れてこられたのに、だまされたんだ」という話も聞きました。

コーディネーター・西野瑠美子さんの補足:

慰安所が作られた過程は
1.軍の直轄で作られた 
2.軍が民間に委託して作らせた 
3.売春宿を軍指定にした 
という3つのケースであり、どの場合でも(売春宿であっても)、軍が関与していることに変わりはない。


坂倉清さんの話:
 1920年生まれ。1940年12月、独立混成第10旅団45大隊。その後第59師団54旅団45大隊歩兵砲中隊。
 初年兵教育が終わると、5月頃から教育討伐。その頃分かってきたのが、糧秣の「かっぱらい」の方法。糧秣の配給はなく、現地から「調達」するのが当たり前になっていました。作戦討伐の合間に鶏を盗ったり卵を盗ってきたりしました。
 そうした討伐の合間に、ある古い兵隊が家の中から出てきて「良かったぞ。黙ってろ」と言いました。要は家の中で女性を強かんしてきたのです。「焼くな、犯すな、殺すな」と言われていたので、それで強かんが少なくなるのではなく、逆にばれないようにやっていたのです。
 また、昭和17年の頃だったか、魯東魯南作戦をしていた頃、ある慰安所に入ると、小さいそんなの子がいました。まだほんの子どもでした(14歳ぐらい?)。しかもずっと泣いている。支配人に聞くと、「昨日来たばかりだ」という。びっくりして、そのまま帰ったという経験があります。このような子どもが、自分の意志で慰安所に来るとは思えません。
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 その後、東チモールで元「慰安婦」の救援活動をされているアンジェリーナさん(27歳)が来日しておられ、その方のお話もありました。東チモールでは2000年の女性国際戦犯法廷をきっかけに2人の方が名乗りを上げ、それから現在までに17名の女性が名乗り出てくれています。

国会議員や秘書も何名か来ていました。

日本軍『慰安婦』問題行動ネットワーク」声明も出されました。(了承取り次第掲載予定)

以上、感想抜きレポートでした!  (編集部:舜)

[追加:報道発見!]
ロイター
Japanese ex-soldiers call for apology to sex slaves
http://www.reuters.com/article/worldNews/idUST15641020070425

ワシントン・ポスト
Japanese ex-soldiers call for apology to sex slaves
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/25/AR2007042500133.html